コーヒーブレイクQ&A 社会保障の歴史 フヨウの話?

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私には重度障害者の姉がいます。姉の心身の状況では満足に働けないため所得は殆どありません。従って、会社員である私が別居中の姉に生活補助費の仕送りをしています。以前は健康保険の被扶養者の認定について、弟妹は生計維持要件さえ満たせば同居要件は不要である一方同じ兄弟姉妹でありながら、兄姉に関しては同居要件が必要とされていたため私の被扶養者とすることができず、国民健康保険に加入していました。今般平成28年10月 1 日より兄姉の同居要件が廃止になったと聞きましたので、私は姉と同居していなくても健康保険の被扶養者とすることができますか?ちなみに私の姉は、来月から療養も兼ね米国に短期滞在する予定ですが、その場合でも被扶養者と認めてもらえるのでしょうか?

 

いつもの通り、健康保険の被扶養者に関して基本から確認していくことにしましょう。

まずは、健康保険の扶養という制度についてですが、健康保険法には、3条7項に「扶養」の定義が定められています*1が、同じ健康保険であってっも国民健康保険には扶養という制度はありません。

ここで我が国の社会保障制度の歴史につてい簡単に振り返ってみましょう。

我国の社会保障制度の歴史については、厚生労働省平成23年度版「厚生労働白書」に詳述が出ていますので、要所要所を抜粋したいと思います。

日本の社会保障制度は、医療保険や年金保険に代表される保険の仕組みを用いた社会保険方式*2と、生活保護等に代表される公費財源による公的扶助方式*3とに大別できるが、生活困窮対策が中心であった戦後復興期の一時期を除けば社会保険方式を中核として発展を遂げ、今から50年前の1961(昭和36)年すべての国民が医療保険及び年金による保障を受けられるという画期的な国民皆保険・皆年金」を実現した。

以上の様に日本の社会保障制度は「税方式」ではなく、「社会保険方式」を基本としています。

戦後の日本の社会保険制度は、「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利を保障するとした新憲法のもとで、新しい制度として成立するに至りましたが、その基本理念を構築したのは昭和24年に発足し、翌昭和25年10月に「社会保障制度に関する勧告」を内閣総理大臣に提出した社会保障制度審議会*4でした。同審議会での議論は、日本の社会保障制度が国の一般財源の基礎の上に構築されるべきか、社会保険料を財源とする社会保険制度の上に形成されるべきかという問題でしたが、当時の日本の社会保障のモデルとされたイギリスが社会保障方式*5を中心としたということもあり、社会保険方式を採用することとされ、現在でも、基本的にはこれが堅持されています。【平成22年度版 社労士ナンバーワンテキスト(TAC出版)より】

厚生労働省「各種制度の低所得者対策の経緯等」という資料に社会保障制度に関する勧告(昭和25年社会保障制度審議会)の概要が掲載されていますが、その資料によると、日本国憲法25条を受け、「社会保障制度に関する勧告」(昭和25年10月16日社会保障制度審議会)では、社会保障制度について概ね以下のような考え方を提示しているとされています。

日本国憲法25条*6の規定は、国民には生存権があり、国家には生活保障の義務があることを明らかにしている。

○ いわゆる社会保障制度」とは、困窮の原因に対し、保険又は直接公の負担において経済保障を図り生活困窮に陥ったものに対しては、国家扶助によって最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生及び社会福祉の向上を図り、もってすべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることである

国家が責任をとる以上は、国民もまた、社会連帯の精神に立って、それぞれその能力に応じてこの制度の維持と運用に必要な社会的義務を果たさなければならない

社会保障の中心は、自らそれに必要な経費を負担する社会保険制度としつつ、保険制度のみでは救済し得ない困窮者に対しては、国家が直接扶助し、その最低限度の生活を保障しなければならない。更にすすんで、国民の健康の保持増進のための公衆衛生、国民生活の破綻を防衛するための社会福祉行政の拡充を同時に推進しなければならない。

以上の様に1950(昭和25)年の勧告当時は社会保障の理念最低限度の生活の保障でしたが、その後、社会保障制度審議会では、1991(平成3)年に設けた社会保障将来像委員会第1次報告「社会保障の理念等の見直しについて」(1993年)の中で、社会保障について、「国民の生活の安定が損なわれた場合に、国民にすこやかで安心できる生活を保障することを目的として、公的責任で生活を支える給付を行うもの」と定義しました。 同審議会では、この報告等を基にした1995年の勧告*7で、「広く国民にすこやかで安心できる生活を保障すること」社会保障の基本的な理念であると上述した1950(昭和25)年の勧告当時の社会保障の理念との相違を述べ、国民の自立と社会連帯の考え社会保障制度を支える基盤となることを強調しました。勧告の中で示された普遍性・公平性・総合性・権利性・有効性という社会保障推進の5原則とそこに示された基本的考え方の多くは、社会保障体制の再構築を求めるものであり、後の介護保険制度の法制化等に結びついたとされています。厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」より】

 

 

日本の社会保障制度の特徴 厚生労働省「各種制度の低所得者対策の経緯等」より)

1 すべての国民の年金、医療、介護をカバー国民皆保険・皆年金体制)

社会保障給付の大宗を占める年金医療介護は、社会保険方式により運営

・ 年金制度は、高齢期の生活の基本的部分を支える年金を保障

医療保険制度は、「誰でも、いつでも、どこでも」保険証1枚で医療を受けられる医療を保障

介護保険制度は、加齢に伴う要介護状態になっても自立した生活を営むことが出来るよう必要な介護を保障

社会保険方式に公費も投入し、「保険料」と「税」の組み合わせによる財政運営

社会保障の財源は、約60%が保険料。約30%が公費、約10%が資産収入等で、保険料中心の構成

3 「サラリーマン(被用者)グループ」と「自営業者等グループ」の2本立て

・ サラリーマン(被用者)を対象とする職域保険(健康保険、厚生年金)と自営業者、農業者、高齢者等を対象とする自営業者等グループ(国民健康保険国民年金)の2つの制度で構成

4 国・都道府県・市町村が責任・役割を分担・連携

・ 年金等は国、医療行政は都道府県、福祉行政は市町村がそれぞれ中心となって、社会保障制度を運営・医療・福祉サービスは、民間主体が重要な役割を果たしている。

 

社会保障制度の発足の歴史を上述した資料から世界的に振り返ると、労働争議等の労働問題の深刻化という社会情勢と密接に関係しているようです。世界で初めて社会保障制度ができたとされるドイツでも我が国でもそのような労働問題の社会的深刻化が発足の発端とされています。日本初の医療保険の誕生は、まさにそのような混乱の中にあった状況下、政府が、労使関係の対立緩和、社会不安の沈静化を図る観点から、ドイツに倣い労働者を対象とする疾病保険制度の検討を開始し、1922(大正11)年「健康保険法」を制定したのが始まりとされています。*8

このように、我国の医療保険も年金も、戦前から、工業化の進展に伴う労働問題の発生等に対応して、被用者保険を中心に制度化の動きが進んでいたのですが、終戦直後は、生活困窮者への生活援護施策や感染症対策が中心となったとされています。昭和30年代の初めには被用者保険の整備は進んでいたのですが、農家や自営業者などを中心に国民の多くが医療保険制度や年金制度の対象ではなかったため、1961(昭和36)年地域保険である国民健康保険国民年金にこれらの者を加入させることで国民皆保険・皆年金が実現し、以後、国民皆保険・皆年金は日本の社会保障の中核として発展していったとされています。 厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」P32より】

以上の様に我国の国民皆保険・皆年金が実現が昭和36年に実現したということがよく言われているため、国民健康保険ができたのが昭和36年であるかのような誤解があるようですが、実は、国民健康保険が制度化されたのは第一次世界大戦終戦後の1938(昭和13)年4月制定され、同年7月施行されています。

制度化のきっかけは、第一次世界大戦終戦後の大正末期の戦後恐慌とその後昭和に入ってからの金融恐慌世界恐慌と相次いで発生した昭和恐慌が、その後の東北地方を中心に発生した大凶作等と相まって農村を中心とする地域社会を不安に陥れたことだとされています。困窮に陥った農家では赤字が続き、負債の多くを医療費が占めていたとされています。*9 そこで、当時社会保険を所管した内務省は、農村における貧困と疾病の連鎖を切断し、併せて医療の確保や医療費軽減を図るため、農民等を被保険者とする国民健康保険制度の創設を検討したとされています。*10

 日本は過去にも、戦時体制に突入することとなる状況下において、健兵健民政策を推進すべく国民健康保険の一大普及計画が全国で実施され、1945(昭和20)年には組合数、被保険者数ともに一定の量的拡大に成功しましたが、組合数の量的拡大は必ずしも質を伴うものでなく、戦局悪化のため皆保険計画は目標どおりに進まなかったという経緯があります。しかしながら国民健康保険は、先進国に前例のある被用者保険と異なり、日本特有の地域保険としての性格を有していたため、国民健康保険の誕生は、日本の医療保険が労働保険の域を脱し国民全般をも対象に含むこととなり、戦後の国民皆保険制度展開の基礎が戦前のこの時期に作り上げられたことを意味したとされています。

上述したように、その後我国の「国民皆保険・皆年金」は、1955(昭和30)年頃に始まった「神武景気」による本格的な経済成長といわゆる「人口ボーナス」という時代の波に支えられて達成されることになりますが、当時の国民健康保険の医療給付については、その給付範囲、給付率とも健康保険などの被用者保険と比べて水準が低いという問題*11があったとされており、国民健康保険の給付率について被用者保険の水準にできるだけ近づけることが要請され、1961(昭和36)年国民健康保険法改正により世帯主結核性疾病又は精神障害について同年10月より給付率が5割から7割に引上げられ、1963(昭和38)年同法改正によって世帯主の全疾病について原則として給付率が7割に引上げられ、更にその後、1966(昭和41)年同法改正によって世帯員*12に対する法定給付割合が5割から7割に引上げられることが決定し、1968(昭和43)年1月より実施されたという経緯をたどることになります。

日本は、高度経済成長の始まる前述の神武景気の頃(昭和30年頃)より核家族化の傾向があったとされていますが、その後昭和30年代後半にはその傾向が顕著となっていき、老人に対する扶養意識の減退がみられるようになったとされており、そのことが一人暮らし老人寝たきり老人の問題を顕在化させる結果となり、世界で初めての老人関係法と言われる老人福祉法(1963年)の制定につながります。 

 国連の定義では、65歳以上人口比が7%を超えると高齢化社会14%を超えると高齢社会と言われていますが、日本は1970年(昭和45年)に高齢化社会の仲間入りを果たし、1955年頃まで横ばいで推移していた高齢化率は、この年を境に上昇に転じ、高齢化社会の仲間入りを果たして僅か24年後の1994年(平成6年)には高齢化率が14.5%を上回り高齢社会に突入したとされています。

以上の様な高齢化の進展や高度経済成長に伴う社会構造の変化にともないもたらされた世帯構造の変化等に伴い、家庭が担っていた扶養能力の低下がますます顕著となり、社会保障需要は一層増大する形となっていったということです。

一般的に言って、経済が成長し、企業規模が拡大していくと組織での働き方も全国規模の転勤等が当たり前となっていくという理由なども核家族化を加速させた要因の一つと考えてよいと思います。

今回の記事のメイン資料である厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」】の中でも、日本が国連定義の高齢化社会の仲間入りをした1970(昭和45)年には、高度経済成長に伴う求人難のため、当時の新規学校卒業者の主力であった新規高卒者に対する企業の求人倍率7倍にも達し、企業にとっては労働者の確保・定着を図ることが重要な課題とされたことが、「日本型雇用慣行」を大企業を中心に普及・拡大させた要因として説明されていますが、その日本型雇用慣行の普及・定着はサラリーマンとして働く夫とそれを支える専業主婦という世帯構成の一般化をもたらしたとしています。

その後、日本は二度にわたるオイルショックを経験し、経済は低成長時代を迎えることになるのですが、それに伴い1970年代以降、上述した専業主婦の割合が低下し、代わって共働き世帯増加していきバブル経済が崩壊してからの1990年代以降は、専業主婦世帯を上回るようになったということです。

 このような共働き世帯の増加は、女性の労働者の増加という形を意味しますが、それはそのまま女性の社会での活躍という社会進出の進展を意味するものではなく、日本古来の固定的な性別役割分業を前提とした単純、補助的な業務に限定し男性とは異なる取扱いをおこなうというもので、必ずしも女性の能力発揮を可能とするような環境が整えられているとは言えない状況にあり、そのような環境を整備することが大きな課題とされていた状況を踏まえ1985(昭和60)年男女雇用機会均等法が制定されることになります。同法の制定により、女性の社会進出が一層進むことになったということですが、こうした女性労働者達が仕事を続けるうえでの困難な障害を克服し、仕事も家庭も充実した生活を送ることができる働きやすい環境づくりを進めるため、1991(平成3)年育児休業等に関する法律」が、1999(平成11)年には「育児・介護休業法」が制定されるという流れになります。

高齢化の問題の一つである老人医療の問題については、1963(昭和38)年に前述した老人福祉法が制定されていたのですが、日本が高齢化社会に突入する1970(昭和45)年当時は、一般的に高齢者は低収入で当時の年金制度も未成熟であったことや家族給付率が5割であったことから、老人医療費の無料化を求める声が強かったことや高齢者たちが高額な医療費を避けるため受療を敬遠するような問題を避けるため、福祉元年と言われる1973(昭和48)年1月からは、70歳以上の高齢者を対象とした老人医療費支給制度が老人福祉法を一部改正する形で制度化され、高齢者の医療費負担が無料化されました。さらに、同年には医療保険制度では、健康保険の家族給付率の引上げ(5 割から7割)や高額療養費制度の創設などが行われます。

 その後、 経済成長の鈍化にもかかわらず、医療費の伸びは増加傾向の一途をたどることになるのですが、そのような状況の下での医療保険財政の大幅に悪化に対処するため、1984(昭和59)年にサラリーマンの被保険者本人自己負担1割に、1997(平成9)年には1割から2割へ、更に2002(平成14)年度には3割に引上げられるといった健康保険法の改正が行われます。

一方、1973(昭和48)年からの高齢者を対象とした老人医療費支給制度による老人医療費の無料化は、その後の「病院のサロン化」「過剰受診・過剰診療」の問題を引き起こし国民健康保険の財政を圧迫することになったため、1982(昭和57)年の「老人保健法」*13の制定に伴い終了することになります。高齢者医療制度については、高齢者の自己負担を1割、現役並み所得の場合は2割とした(2008年に3割に引上げ)上で、老人保健法の対象年齢を70歳から75歳への引上げ、公費負担割合を3割から5割への引上げ等の改正が行われますが、2006(平成18)年に成立した「健康保険法等の一部を改正する法律」 により、2008年4月から老人保健制度に代わる後期高齢者医療制度が実施されることになります。

 

以上、今回は、設定問答の健康保険の扶養に関するテーマに入る前に、我国の社会保障の歴史について、医療保険制度を中心に振り返りを試みました。我が国の国民皆保険・皆年金については、文字通り年金制度とのかかわりを抜きにはあり得ないのですが、スペースの都合等もあり年金制度の歴史変遷まで触れることはしませんでした。興味のある方は、今回のメイン資料である平成23年度版 厚生労働白書」に詳述の解説がありますので、参考にしてください。

 

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*1:健康保険法(最終更新:平成二十七年五月二十九日公布(平成二十七年法律第三十一号)改正)3条7 この法律において「被扶養者」とは、次に掲げる者をいう。ただし、後期高齢者医療の被保険者等である者は、この限りでない。 被保険者(日雇特例被保険者であった者を含む。以下この項において同じ。)の直系尊属、配偶者(届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。以下この項において同じ。)、子、孫及び兄弟姉妹であって、主としてその被保険者により生計を維持するもの  被保険者の三親等内の親族で前号に掲げる者以外のものであって、その被保険者と同一の世帯に属し、主としてその被保険者により生計を維持するもの  被保険者の配偶者で届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にあるものの父母及び子であって、その被保険者と同一の世帯に属し、主としてその被保険者により生計を維持するもの  前号の配偶者の死亡後におけるその父母及び子であって、引き続きその被保険者と同一の世帯に属し、主としてその被保険者により生計を維持するもの

*2:社会保険とは、保険の技術を用い保険料を財源として給付を行う仕組みであり、国や公的な団体を保険者とし、被保険者は強制加入が原則である医療保険制度金保険制度が典型的な例である。

*3: 社会扶助とは、租税を財源にして保険の技術を用いずに給付を行う仕組みであり、国や地方公共団体の施策として、国民や住民に対して現金またはサービスの提供が行われる仕組みである。その典型は、公的扶助制度である生活保護制度であるが、児童福祉、障害福祉といった社会福祉制度や、児童手当福祉年金国民年金制度創設時に、既に高齢のために提供対象外となった層に対する措置として、保険料負担を必要としない無拠出の年金制度)も含まれる

*4:内閣総理大臣の諮問機関として昭和24(1949)年に発足し、我国の社会保障制度について、50年余にわたり審議・勧告等を行っていたが、平成13(2001)年中央省庁の再編に伴い廃止された。1947(昭和22)年、GHQの招聘により来日したワンデル博士を団長とするアメリ社会保障制度調査団の調査報告書に基づき、1948(昭和23)年12月に社会保障制度審議会が設立された。社会保障制度審議会は首相の直轄とされ、国会議員、学識経験者、関係諸団体代表及び関係各省事務次官40名で構成された。

*5:1942(昭和17)年の英国のベヴァリッジ報告社会保障制度の主要手段として社会保険を位置づけ、欧米諸国の福祉国家の考えの基礎となった。日本でも、日本国憲法の制定により 社会保障に対する国の責務が規定され、社会保障制度審議会1950(昭和25)年社会保障制度に関する勧告」において社会保険を中核に社会保障制度を構築すべきとした。

*6: 日本国憲法第25条は、(1)「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」(2)「国は、すべての生活部面について社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と、規定している。

*7:社会保障体制の再構築(勧告)~安心して暮らせる21世紀の社会をめざして」

*8:日本では、第1次世界大戦(1914年~1918年)をきっかけに空前の好景気を迎え、重化学工業を中心に急速に工業化が進展し、労働者数は大幅に増加した。一方で、急激なインフレで労働者の実質賃金は低下したほか、米価の急上昇により全国で米騒動が発生した。また、第1 次世界大戦後は一転して「戦後恐慌」と呼ばれる不況となり、大量の失業者が発生した。このため、賃金引上げや解雇反対等を求める労働争議が頻発し、労働運動が激化した。厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」P35より】

*9:困窮に陥った農家では欠食児童や婦女子の身売りが続出し、大きな社会問題となった。厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」P36より】

*10:当時の国民健康保険の実施主体は現在のように市町村ではなく、組合単位で設立することができることとされていて、その設立も加入も基本的に任意であった。また、保険給付には療養助産葬祭給付があり、その種類や範囲は組合で決めることができるとされた。厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」P36より】

*11:給付の範囲については、往診、歯科診療における補てつ、入院の際の給食、寝具設備の給付は、当分の間、行わなくてよいとされていたため、これらの給付の制限を行っている保険者が少なくなかった。厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」P45より】

*12:世帯員とは、世帯を構成する各人をいう。ただし、社会福祉施設に入所している者、単身赴任者(出稼ぎ者及び長期海外出張者を含む。)、遊学中の者、別居中の者、預けた里子、収監中の者を除く。厚生労働省のサイト資料「世帯員とは」より

*13:老人保健法は、①老人医療費支給制度を廃止し、高齢者にも一部負担を求めることとしたこと、②老人医療費に要する費用について国、地方公共団体が3割(国20%、都道府県5%、 市町村5%)を負担し、各保険者が7割を拠出することにより全国民が公平に負担することとし、国民健康保険財政の救済策を講じたこと、③疾病予防や健康づくりを含む総合的な老人保健医療対策を盛り込むことなど、負担の公平、健康への自覚や適正な受診を促すという趣旨の法律であった。 2008年4月に「高齢者の医療の確保に関する法律」と改称された。厚生労働省 平成23年度版「厚生労働白書」P57より】